皆様こんにちは、札幌市議会議員ふじわら広昭です。
今年の札幌大通ビアガーデン、私も友人等と何回か行きましたが、8月16日で終了しました。
私はビールを飲むときに思い出す人がいます。
薩摩藩士の村橋久成、彼は北海道開拓使に出仕していました。
村橋は国内初の麦酒醸造所を札幌に建設すべきと強く主張した人物です。
1875(明治7)年、開拓使は当初東京に建設し、成功したら札幌に移転することを考えていました。
村橋は25歳の時、藩から英国に陸軍学術専攻の留学生として派遣され、帰国後、戊辰・箱館戦争に於ける官軍の軍監の一人として箱館にいました。
彼は英国で農業にも関心を持ち、北海道の気候が英国に似ていると感じていました。
戊辰・箱館戦争が終わると、黒田清隆の勧めもあり、北海道開拓使の中間管理職として苦労しつつも手腕を発揮し、琴似屯田兵村などの創設に携わりました。
村橋は麦酒の最適地は札幌であると進退を賭け上層部に異論を唱え、1876(明治9)年9月、現在の北2条東4丁目に麦酒醸造所を完成させました。
上層部は村橋に条件として、同時に葡萄酒醸造所と製糸所(後の帝国繊維工場)を札幌に建設することを命じ、いずれも成し遂げました。
しかし、藩閥と国家意識のはざまで煩悶に明け暮れた村橋は、1881(明治14)年5月、開拓使10カ年計画最終年の1年前、官営工場の民間払い下げに伴う「政・財・官」の癒着に失望し、民間局副長などの地位を捨てて行脚放浪の旅に出ました。
11年後の1892(明治25)年9月、現在の神戸市の路傍に倒れ、4日後の9月28日、最後を看取る者もなく行年50歳で息を引き取りました。
私は村橋久成が札幌に国内初の麦酒醸造所建設に携わらなかったら日本のビールの歴史はどうなっていたのかと思いほろ苦いビールを飲んでいます。
私はこれからも村橋久成のように何事にもこだわりと信念を持って臨みたいと思っています。