2024年5月20日月曜日

村橋久成の復権と胸像の設置場所について

 皆様こんにちは札幌市議会議員ふじわら広昭です。
 今回は日本の官営麦酒醸造所の先駆者、旧薩摩藩士、村橋久成の復権と胸像の設置場所についてです。

サッポロビール園の外観写真

 1984(昭和59)、私が衆議院議員小林恒人氏の秘書となって間もない頃、鹿児島県選出の衆議院議員新盛辰雄氏から同県の彫刻家中村晋也氏が創作した村橋久成の胸像をサッポロビールに寄贈したい旨の申し出がありました。
 小林氏は自分一人では荷が重いので同選挙区の衆議院議員町村信孝氏に協力を依頼し二人でサッポロビールの本社に行きました。
 後日、「弊社の社歴に村橋久成氏のことは見あたらないのでお受け出来かねる」との返事があったことを記憶しています。

 その後、2000(平成12)年頃、札幌市民の有志が立ち上がり紆余曲折を経て2001(平成13)年に北海道知事公館の敷地内に設置され現在に至っています。

官営麦酒醸造所の先駆者、村橋久成氏の胸像の写真

 現在、サッポロビール博物館には村橋久成氏とビール醸造技師中川精兵衞氏の功績コーナーが設けられています。

 村橋久成氏は1842(天保13)年10月薩摩藩加治木島津家の分家で出生し将来は島津藩の家老職に就くべき家柄でした。
 村橋久成氏は五代友厚、森有礼ら15人と共に薩摩藩の英国留学生として派遣されています。
 帰国後は討幕運動に参加し箱館戦争では軍監を務め1871(明治4)年、同郷の黒田清隆氏が北海道開拓使長官を務める東京出張所に在勤していました。
 黒田長官の麦酒東京試験所計画に異議を唱え北海道計画を提案し他の事業と共に全てを成功させました。
 同郷人の永山武四郎氏、調所広丈氏等は皆んな貴族院議員や県知事等に栄進しています。

 村橋久成氏の言動は出世や栄達を度外視せねば出来ない勇気ある進言と言えます。

 1982(昭和57)年3月、鹿児島市が50万都市記念に「若き薩摩の群像」英国に留学した15人の偉業と熱意を後世に伝えるためのブロンズ像を建立しています。
 当時の札幌市長板垣武四氏は鹿児島市長に「麦酒製造の最適地とし官営麦酒醸造所創設に精魂を傾けられた村橋久成先生を私どもは忘れることはできません」とメッセージを送っています。
 赤い星のラベルは当時と同じです。

 村橋久成氏の真実はホップのきいた麦酒のように何時もほろ苦く心にしみてきます。
 私はこれからも村橋久成氏の復権と胸像がより多くの人が集う場所に設置されるために頑張りたい。

サッポロビール博物館の写真。建物前に並ぶ樽には「 麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる」と書かれている。

2024年5月5日日曜日

樋口一葉との出会い

 皆様こんにちは札幌市議会議員ふじわら広昭です。
 今回は私と樋口一葉との出会いについてです。

 日銀と財務省が公表した新紙幣(1万円札、5千円札、千円札)の発行日が今年7月3日に近づくにつれ私は40年前のことを思い出しています。

 私は当時、国会議員の公設秘書になり1年が過ぎ自分でも仕事に少し余裕を感じるようになっていた頃、国会での新年度予算(案)審議を控え休日に議員と資料整理を終えたあと演劇鑑賞に誘われました。
 出し物は樋口一葉の「にごりえ」。

 近代化を急ぐ明治時代の社会の本流にのり切れず、岸辺によどむ濁り江に苦闘し、やがて人生の貴重な何かを諦めて現実と折り合いをつけていく人々の哀しさと生活の様子が今も強く印象に残っています。

 当時、日本が近代国家の仲間入りするため歩み出したとはいえ女性の地位は職業を問わず以前と全く変わっていませんでした。
 文学の世界ではなおさらであったと思います。

 ご承知のとおり、樋口一葉は子どもの頃から並みはずれた才能を持ちながら家庭の事情で進学できず、女性でありながら相続戸主として家族の生計のため作家になることを決意します。

 当時は戯文が流行していましたが、樋口一葉は「真情」を作品に反映させたいとの強い信念を持ち、お金のためなら何でも書くというタイプではなかったと言えます。

 こうした樋口一葉の気質と仕事ぶりは文学界にもあった“閨秀”作家との風評や女性軽視という差別を解消させていくことに繋がっていったと思います。

 樋口一葉は24歳の短い生涯をあわただしく走り去って行きましたが、決して哀しい女性の宿命だけ描いたのではなく、むしろ新しい時代の到来を一足早く生きたところがあったと言えます。

 逆行の中で懸命に生き、信念を貫いた樋口一葉との出会いを、私はこれからも大切にしたいと思います。