皆様こんにちは札幌市議会議員ふじわら広昭です。
今回は日本の官営麦酒醸造所の先駆者、旧薩摩藩士、村橋久成の復権と胸像の設置場所についてです。
1984(昭和59)、私が衆議院議員小林恒人氏の秘書となって間もない頃、鹿児島県選出の衆議院議員新盛辰雄氏から同県の彫刻家中村晋也氏が創作した村橋久成の胸像をサッポロビールに寄贈したい旨の申し出がありました。
小林氏は自分一人では荷が重いので同選挙区の衆議院議員町村信孝氏に協力を依頼し二人でサッポロビールの本社に行きました。
後日、「弊社の社歴に村橋久成氏のことは見あたらないのでお受け出来かねる」との返事があったことを記憶しています。
その後、2000(平成12)年頃、札幌市民の有志が立ち上がり紆余曲折を経て2001(平成13)年に北海道知事公館の敷地内に設置され現在に至っています。
現在、サッポロビール博物館には村橋久成氏とビール醸造技師中川精兵衞氏の功績コーナーが設けられています。
村橋久成氏は1842(天保13)年10月薩摩藩加治木島津家の分家で出生し将来は島津藩の家老職に就くべき家柄でした。
村橋久成氏は五代友厚、森有礼ら15人と共に薩摩藩の英国留学生として派遣されています。
帰国後は討幕運動に参加し箱館戦争では軍監を務め1871(明治4)年、同郷の黒田清隆氏が北海道開拓使長官を務める東京出張所に在勤していました。
黒田長官の麦酒東京試験所計画に異議を唱え北海道計画を提案し他の事業と共に全てを成功させました。
同郷人の永山武四郎氏、調所広丈氏等は皆んな貴族院議員や県知事等に栄進しています。
村橋久成氏の言動は出世や栄達を度外視せねば出来ない勇気ある進言と言えます。
1982(昭和57)年3月、鹿児島市が50万都市記念に「若き薩摩の群像」英国に留学した15人の偉業と熱意を後世に伝えるためのブロンズ像を建立しています。
当時の札幌市長板垣武四氏は鹿児島市長に「麦酒製造の最適地とし官営麦酒醸造所創設に精魂を傾けられた村橋久成先生を私どもは忘れることはできません」とメッセージを送っています。
赤い星のラベルは当時と同じです。
村橋久成氏の真実はホップのきいた麦酒のように何時もほろ苦く心にしみてきます。
私はこれからも村橋久成氏の復権と胸像がより多くの人が集う場所に設置されるために頑張りたい。